前回、前々回と、多くの組織幹部が悩んでいる「従業員が動いてくれない(特に若い世代)」についてお話してきました。
そもそも、仕事をするため、生き抜いていくための「努力」の定義が変わってきています。今回は、そのあたりのお話をします。
日本の公教育は、「欠点克服至上主義」だった。
多くの組織幹部の皆さまが受けてきた教育も含め、長らく日本での公教育は「標準的な普通の人の量産」を主眼としてきました。
長所を伸ばすよりも、短所を克服すべし。
長所を伸ばす暇があったら、短所や欠点の克服に注力する教育は、終身雇用や年功序列を前提とした日本企業の仕組みにピッタリ合っていたわけです。
そのおかげで、20世紀の工業時代に経済成長という大きな成果を生み出し、成長が止まった現在においても、なお治安のためのコストが低い国でいられる要因のひとつです。安心安全。
だからこそ、日本は長らく失敗した人にとって極めて厳しい社会でもありました。
ヒトにとって欠点を矯正することはかなり難しいことで、脳が膨大なエネルギーとコストを消費します。ほとんどのヒトにとって、欠点を直して普通になることは至難の業、つまりめちゃくちゃ疲れることです。
普通はすぐ挫折しちゃうので、欠点をしっかり克服しようとしているか、お互いに監視し合うことになりました。
大人は、長らく子どもにこう教えてきました。
「努力」とは、ツラい「弱点の克服」である。打ち克つべき相手は他人ではなく、自分自身の弱さである。
弱さに負けた人に対しては、社会を挙げて白眼視して、ペナルティを与えてきました。弱点の克服に手を抜く人が出ないようにするためです。厳しい!
そして、弱点を克服して標準的な普通の人になることこそが、社会を生き抜いて幸せになるために必要なことだと信じ込んで、その方向の「努力」をしてきました。
インターネットが価値観を一気に破壊した。
しかし、ホントに弱点を克服することが幸せにつながるの?と、若い人たちは懐疑的になっていきます。だって、大人たちってみんなつまんなそうじゃん。
そんなところに登場したのがインターネット。
とくにスマホとSNSの登場は、過去の価値観を一気に破壊しました。
毎日毎日動画や記事で「普通ではない」個性を開花させて楽しそうな他人を見せつけられ続ける。「標準的な人になろう」と努力してきた親世代が、あんなに不幸でつまらなそうなのになぜ?
その結果、デジタルネイティブ世代が「親や教師の言う通りにしていても生き残れないのでは?」と強い疑問を持つようになるのは、ごく自然な流れです。
努力とは、自分の長所を伸ばして成長を実感し続けるワーク。
そして、短所を克服するより、自分の長所を伸ばして発揮できるようにならないとマズい、という価値観が浸透してきました。これまでの揺り戻しで、短所を克服するような無駄なことにコストや時間をかけるのではなく、長所を見つけてそれを伸ばす「努力」をすべき、と転換したのです。
「努力」とは、欠点を補うための無駄なツラさに耐えることではなく、自分の長所が伸びることを日々実感し続けるワークである。
だから、職場の外で(なんなら職場にいても)、自分の長所や向いている分野で成長するためにコストや時間を投資します。
この世代は賢いので、その主張を通すために旧世代の価値観を破壊してくるようなことはしません。しかし、自分の長所を伸ばす「努力」を妨害してくるような旧価値観の圧力があれば、躊躇なく「ハラスメントです」と訴えます。自分たちは旧世代と争う気はないから、旧世代も自分たちの成長を邪魔しないでほしい、ということです。
また、若い人たちは、旧世代の人々が自分たちの価値観を理解することは決してない、と信じ込んでいます。まさに異文化コミュニケーション。
こちら側がなんの心構えもなく「若い世代が動いてくれない」と嘆いたところで、そりゃそうだ、という話です。異なる価値観を尊重しなければ、コミュニケーションは成立しません。